高野の決闘
最後の仇討ちの場
 
 文久2年(1862)に、赤穂藩森家の家老、森主税と村上真輔が、尊王攘夷を叫ぶ一団にによって殺される事件が起こりました。無残にも切り殺された父・真輔を思うとき、子どもたち4兄弟の胸は、張り裂けんばかりの悲しみと悔しさでいっぱいであったことでしょう。そこで、4兄弟と助太刀3人を含む7名が、紀州・九度山の中屋旅館に集まり、仇討ちの相談をしました。機会をうかがっていたところ、暗殺に加わった6名が、紀州高野山に登ることを知り山中で待ち伏せしました。そして、高野町・神谷の地で、村上兄弟は、念願の仇討ちを果たすこととなりました。時に明治4年(1871)2月のことでした。そして、この仇討ちがきっかけとなり、明治6年(1873)に仇討ち禁止令がだされることとなり、村上兄弟による高野での仇討ちが、日本で一番最後の仇討ちとなりました。なお、仇討ちで亡くなった西川一派の墓は、黒石から数百メートル離れた場所にあります。西川一派の1人、運六の弟で岩吉という13歳の少年も加わっていました。岩吉は直接的に無関係だったにも関わらず、戦闘中、首に深い傷を受けました。近くの観音堂まで運ばれ手当てを受けましたが絶命してしまいます。六基の墓石の中に兄の運六と共に葬られている。「殉難七士の墓」と書かれてあるのは、敵側の西川一派も私利私欲の為に動いていないからだろうと思われます。

旧高野街道【 神谷の辻 】 【 殉難七士の墓 】

      

 
なお、和歌山にお住まいでしょうか?お訪ねした「KIKUO様」のサイトに、詳しい戦闘状況が掲載されていました。恐れ入りますが、お借りいたしました。

池田
農夫也
村上
四郎
村上
行蔵
村上
六郎
水谷
嘉三郎
赤木
俊三
津田

 
西川
邦次
八木源
右衛門 
吉田
宗平
田川
運六
 山本
山下
鋭三郎

  敵が鳥居をくぐり抜けて坂を登りきり、旅商人姿の池田農夫也と村上六郎の前を通り、最後の鋭三郎が行きすぎた時に、農夫也と六郎が鉄砲を放った。ちょうど風が強く、敵は気づかないままそのまま進んだ。水谷嘉三郎と赤木俊三は素早く飛び出し、農夫也と六郎に刀を渡し、四人そろって敵の背後に迫った。前方からは、村上四郎、村上行蔵、津田勉の3人が各自短槍をしごきながら、敵の前に立ちふさがって名乗りを上げた。双方戦闘の火ぶたが切られたのである。津田勉は手槍をしごいて先頭に立つ西川邦次に立ち向かい、行蔵は八木源右衛門に立ち向かった。さらに切り込んできた田川運六の胸元を突き、吉田宗平にも突きかかった。四郎も同じく宗平の胸元に一槍を入れた。このとき四郎は源右衛門に顔を斬られた。四郎はそれをものともせず、再び源右衛門の胸元に突きを入れた。その途端、田川運六が後ろから四郎の耳元に斬りつけた。それを見た行蔵は、横から運六の腰部をめがけて突きかかった。八木源右衛門、吉田宗平、田川運六の3人は深手を負いながらも、山本隆也の助けを得て行蔵と四郎に激しく斬りかかった。四郎も数カ所傷を受け、苦戦を強いられた。そこに嘉三郎が飛び込み、相手かまわず斬り込んだ。そのとき山本隆也が、「おのれ」と叫びながら嘉三郎めがけて斬り込んだ。嘉三郎危うしとみた行蔵は、無我夢中で隆也の右頬に一槍入れた。そこへ山下鋭三郎を斬りつけた六郎がそのまま飛んできて、隆也の肩を手ひどく斬りつけ、隆也はその場に倒れた。宗平は、農夫也のために背後から右肩と右膝を斬りつけられその場に倒れ、四郎は最後の槍で源右衛門を倒した。運六は行蔵が3本目の槍で討ち果たした。最後邦次に立ち向かった津田勉は、運悪く杉の根につまづき倒れたので、邦次が飛び込み組打ちとなった。六郎が気付き重なり合ってもみ合っているところへ馳せ来て一気に邦次の脇腹を刺し通した。農夫也も続いて右肩に斬りつけた。また、六郎のために深手を負った鋭三郎は、そのまま逃げようとするのを俊三が立ち向かい、眉間に一刀斬りつけたが、それにもひるまず脇道を100mほど逃げて路傍に倒れていた。これを行蔵と農夫也が見つけてとどめを刺し、ここに仇敵6人を残らず討ち果たした。

 子供岩吉は、後頭部から襟元にかけての手負いで、いったん観音堂の前に運ばれた。村人が桜茶屋から持ってきて与えた水が、口から入って襟元の傷口から流れ出たとのことである。四郎も勉も重傷を負ったので、嘉三郎と俊三、兵助の三人が用意の木綿と傷薬を取り出して手当を加えた。その間に、鋭三郎と運六の首級は、六郎が切り取った。行蔵は矢立を取り出し、用意の料紙をひろげて墨痕鮮やかに、亡父、亡長兄、亡次兄等霊位を書き、黒石の手前西側路傍の松の木に貼り付けて、怨敵六人の首級をその前に供えた。そして一同は傷の痛みも忘れて霊前に、うれし涙にむせびながら復讐の成果を報告したのであった。


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